
校内研修の季節になると、毎回同じことを考える。これは本当に意味があるのか、と。
「やらされ研修」への安易な批判
研修の話になると、すぐに「やらされ研修はよくない」という声が出る。確かにそうだ。上から降りてきたテーマを消化試合のようにこなして、誰も得をしない時間というのは存在する。
自分もそういう研修に座らされて、内心うんざりしたことが何度もある。
ただ、最近思うのは、「やらされ研修」批判は、それ自体がもう一段下のひどい研修を生む言い訳になっていないか、ということなのだ。
「自由にやっていい」「現場の声を大事に」という名目で、レディネスのない者同士が適当に車座になって話し合う。
誰も事前に何も読んでいない。問いも立てていない。それでも、終わったあとには「いい話し合いができましたね」とにこやかに解散する……。
あれが自分は一番苦手だ。やらされ研修より、よほどたちが悪いと思う。
問題は、思いつきで適当にやっても、その場ではそれなりに満足できてしまうところにある。
教員は話すのが仕事だから、中身がなくても会話を回すのはうまい。
だから準備ゼロでも、それっぽい議論の体裁は整ってしまう。付箋を貼って、模造紙にまとめて、「気づきがあった」と言い合えば、形式上は立派な研修だ。
でも、そこで得たものを言語化してみろと言われたら、たぶん何も残っていない。
これは怖い。なぜなら、「学んだ気になる」という体験を、ほかならぬ教えるプロが自分自身に対してやってしまっているからだ。
研修の質は、たぶん授業の質とつながっている
レディネスのない参加者を前にして、目的も曖昧なまま、それっぽい活動でお茶を濁す。中身より雰囲気で満足させる。
構造としては「つまらない授業」とまったく同じではないだろうか。
研修を雑にやれる感覚と、授業を雑にやれる感覚は、たぶん地続きなのだ。
自分にできていない日もあると認めたうえで、それでもやっぱり、研修を雑にやる教員でありたくないなぁと思うのだ。
それは結局、自分の授業を雑にやらないと言うことと、同じことなのだろうから。




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