ならずものになろう

少しは教育について話してみたくなりました。書き続けて考え続けてみたい。

ならずものになろう

見える化されると、隠れてしまう生徒がいる

千葉県が、全121校の県立高校で「ICTを活用した生徒の見守り支援システム」の本格運用を始めた。

reseed.resemom.jp

生徒が毎日、心身の健康状態を入力し、相談したい先生に「SOS」を出せる。教員は複数人でその情報を共有し、支援につなげる、という仕組みらしい。

データで見えることの意味

方向性そのものは、望ましいと思う。いじめや不登校、心身の不調は、一人の担任がたまたま気づけるかどうかに委ねられてきた部分が大きい。

誰かが「なんとなく気になる」と感じても、共有する経路がなければ、次の日には流れてしまう。毎日の記録が残り、複数の目に触れる状態になること自体は、これまで取りこぼしてきたものを拾う仕掛けになる。

連絡なく登校していない生徒の保護者へ自動で通知が届く機能なども、初動の遅れを防ぐ点では実際に効くだろう。

ただ、現場にいると別の感覚も湧く。見える化されることで、かえって隠そうとする生徒がいるよなぁ…と。

自分の状態が記録され、教員に共有されると分かっている画面に、しんどいときほど「元気です」と入れてしまう。

断言できるデータを持っているわけではないが、そういう子は確実にいる、という肌感覚はある。

心配されたくない、大ごとにされたくない、あるいは入力欄に本音を書くこと自体への警戒。見守られていると意識した瞬間に、見せる自分のほうを整えてしまう、というのは十分ありうる。

システムに正直に出てくる生徒と、システムだからこそ出てこなくなる生徒がいる。後者を数字だけで探すのは、原理的に難しい。

依存ではなく、バックアップとして

だからこのシステムは、教員の目を代替するものではなく、あくまでバックアップなのだと考えたい。自分の観察を裏づけたり、見落としを補ったりしてくれるもの。主に感じ取るのは、やはり日々その場にいる人間の側だ。

そう捉え直すと、教員の仕事はむしろ、数字に出てこない機微を見る方へ寄っていく。

入力は「元気」なのに、口数が減った。いつものふざけ方をしない。提出物の字が乱れている。

そういう、データ化されないズレを拾うこと。システムが充実するほど、この「数字と生身のあいだのズレ」を読む力が、逆に効いてくるのではないだろうか。

そこで引っかかるのが、では、その読む力はどうやって受け継がれるのか、という問いである。

ベテランが「あの子、今日は少し危ういな」と気づくとき、判断の多くは言葉になっていない。過去に見てきた膨大な生徒との比較や、その場の空気の変化の察知が、ほとんど暗黙知として働いている。

マニュアルに落とせないからこそ、これまでは同じ職員室で背中を見て、ときに「さっきのあれ、どう思った?」と雑談で交わしながら、なんとなく伝わってきた。

心配なのは、データ化できる側面が整うほど、「記録に残るもの=大事なもの」という無言の前提が強まって、記録に残らない読みの技術のほうが、共有の対象から静かに外れていかないか、ということだ。

システムは生徒の数値を蓄えてくれるが、教員の「読み」までは蓄えてくれない。そこの継承こそ、意識して設計しないと痩せていく気がする。

まあ、当面は自分の目を鍛えつつ、若い同僚と「数字に出ないほう」の話を意識して言葉にしていくしかないのかなぁ、と思う。

見える化が進む時代に、見えないものを見て、それを伝える。地味だが、ここが教員の仕事の芯に残り続けるのだろうと思うのである。

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